Artist's commentary
ウクライナ戦争におけるロシア非正規軍団人物伝⑥
バルカショフ・アレクサンドル・ペトローヴィッチ
アレクサンドル・バルカショフは、1953年10月6日モスクワ郊外アゼョルスキー地区のセニッツァ村で生まれた。
学校卒業後の1972~74年の間ソ連軍で軍務に就いた。
軍を除隊した後、当時ソ連ではまだ珍しかった空手教室に兄弟と入門した。しかし空手が反ソ勢力と結びつく事を警戒した当局により、直ぐに民間人が空手を習うことは制限された。
そのためアレクサンドルは、教室に通えなくなった後は自主練することで腕を磨いていった。(松濤館流の黒帯三段とのこと。)
1974~1985年までの間、彼の父親が勤めていた合資会社モスエネルゴの熱エネルギーセンター20(火力発電所と都市への熱水供給施設)で電気工として働いた。
1985年、極右民族主義団体、民族・愛国戦線「記憶」の創設者ドミトリー・ヴァシリエフのボディーガードになるとともに彼の唱える民族主義に感化され、入会し幹部にまでのし上がるが後に意見対立から袂を分かち、同志とともに1990年10月16日に民族・愛国戦線「記憶」から分離する形で「ロシア国民統一」を設立した。
「ロシア国民統一」の思想はアレクサンドルの論文である「ロシアの時代」を基礎としている。これは後々に創設される幾多のロシア・民族主義組織の教本となっている。
論文の中で彼が提唱する正教的ロシア民族主義によると、ロシア人とロシアは神によって世界に秩序をもたらす存在として宿命付けられているという選民思想が論じられている。
そしてロシアとはロシア人の国家であり、それを踏まえてた上でロシアにいる先住民族も受け入れる。
また君主制にシンパシーを感じており、ロシアはロシア民族独裁制を復活させる必要があり、法律により、ロシア人を頂点とするカースト民族身分制政府を作るべきであるとしている。
さらには、ロシアの正教伝来以前の古代スラブ信仰復古主義作家ヴラシーミル・シェルバコフの思想である石器時代以来続く「エトルリア・ロシア民族」と「アトランティス民族(西欧文明)」との永遠の対立関係をイデオロギーの中に組み込んでいる。
1993年7月末、モスクワ市に組織として法的登録を行った。またより広い政治的舞台への進出を目論み視野をサンクトペテルブルクにも向けていった。
また同年、大統領令1400号(人民代議員大会及び最高会議解散の大統領令)に端を発して起ったモスクワ騒乱事件(10月政変)では反エリツィン派に加担。アレクサンドル自身が反対派の拠点だったロシア最高会議ビルに自身の組織の武装会員とともに立てこもったが、大局に影響を及ぼす事は出来なかった。
しかし、1993年の一連の事件に加わったことよりロシア国民統一の知名度は飛躍的に高まり、ロシア全国区で知られる存在となった。
高まる名声とは逆に、政府側から危険団体として見られるようになっていった。
その後12月末にアレクサンドルは警察に逮捕され短期間拘留された。
1994年12月、チェチェン紛争が勃発すると彼とロシア国民統一はロシア政府のチェチェン共和国への強硬姿勢と軍事行動を支持した。
また複数名の武装会員若しくは軍内部の組織支持者が軍事活動に参加している事が確認されている。
1995年10月15日、「全ロシア社会愛国運動ロシア国民統一」が設立され、その会議で憲章が採択された。
1997年2月には、初の全国大会が開かれロシア全土の57州の350都市から1,075名の代表が集まった。
1998年初めには、新聞やチラシなどを配布し支持を広めた。また若者を引き付けるために軍事愛国クラブ「ワリャーグ(バイキング)」をモスクワに、「ロシア・ビチャーギ(ロシア騎士団)」をサンクトペテルブルクに組織した。
閉塞感と絶望感が渦巻く90年代のロシアにおいて「ロシア国民統一」の思想は広く市民に支持を受けるようになる。また各地方の正教会や真正教会派、古代スラブ信仰の新興宗教などとも良好な関係を構築するなど着々と勢力を伸ばしつつあった。
そして1999年の国政選挙に政党「救世」としてロシア連邦中央選挙委員会に登録されたが、その過激性とライバルになりかねない可能性を見て取った中央政府によって登録後に選挙から排除された。
このことがきっかけとなり急速に勢力を拡大していた組織は目標を見失うとともに、同年モスクワの拠点が正式な登録がされてないとして活動禁止に追い込まれた。この決定を皮切りにロシアの各都市や州でも次々と活動禁止に追い込まれていった。
1999年末には、政界進出の失敗と当局による摘発により、創設者で最高指導者であるアレクサンドルのリーダーとしての資質と組織の活動の方向性に非難が集まり、遂には組織分裂をおこした。
そして2000年代、プーチン大統領が登場するとロシア社会・経済は徐々に安定に向かうと人々の不満もある程度解消されていき過激な思想への人々の関心も急速に薄れていった。
そんな中、アレクサンドルは非合法化され分裂した組織を復活させロシアやベラルーシで活動を続けた。そのためFSBからは常に監視対象とされた。
2006年12月16日、アレクサンドルはロシア国民統一とは別に新たな宗教活動を始める。
その名も「アレクサンドル・バルカショフ活動」。
彼は公の場に出ることが少なくなり、代わりに非主流派の真正教会派の修道士として田舎の小さな教会でひっそり活動をするようになった。
それでもロシア国民統一の活動は続いており、2014年のウクライナ東部での紛争の際には「新ロシア地域における聖戦」であるとして自身で義勇兵を募り、自ら部隊とともに戦地に赴いている。
さらに2022年からはじまったウクライナ戦争においては部隊を派遣している。
ウクライナ戦争開戦前の2021年7月、ジャーナリストからのインタビューには2014年のウクライナ東部紛争について問われると「俺がプーチン大統領に(ドンバス地域への)部隊(ロシア軍)派遣を助言したんだ。」と語っている。
現在ロシア国民統一は、指導者であるアレクサンドルの活動の中心軸が社会運動から宗教活動に変化した事と新世代のネオナチ系・民族主義系団体の台頭に伴い、その存在感と影響力は徐々に低下させているが、今もロシア最大の民族主義極右勢力の一つである。

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