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紀元前736年”四方世界の王”
ティグラト・ピレセル3世「よーし、記念写真撮るぞ!ちゃんとカメラの方見ろよ!」――我らがアッシュルの至高なる統治者、アッシュル神の加護を受けし偉大なる支配者、王の中の王、千の勝利の後に秩序と平和をもたらす者、トゥクルティ・アピル・エシャラ陛下、降伏を拒む不届き者を撃滅し、沸き立たんばかりに士気旺盛な親衛隊の歓呼に包まれて。旅行中、偶然一行に遭遇した際の記念の一枚より。――紀元前8世紀、新アッシリア時代に中央集権化と軍制改革を押し進め、東西南北に大遠征を繰り返してアッシリアの最盛期を築いた王、旧約聖書にもその名を刻んだティグラト・ピレセル3世(トゥクルティ・アピル・エシャラ)とその愛車、近衛歩兵・騎兵などを。在位は前744-727年。744-735年にウラルトゥやシリア、イスラエル王国、ユダ王国を攻撃、これを服属させました。734年にはガザに侵攻し、隙を付いて反乱を起こしたイスラエルとダマスコ(ダマスカス)を再度攻撃、ダマスコは完全に征服されます。731年と729年においてはバビロニアに遠征し、これを撃破、バビロニアの王を名乗り支配を確立しております。在位中ずっと戦争してる様に見えますが、国土の生産性を上げる政策を施し、その一環か農民・商人を保護したり、と内政にも力を入れておられます。陛下は諜報網を整備するなど情報収拾を重視する一方で常備軍を創設されたそうで、記録によればその規模は最大で20万、誇張を除いた最少の見積もりでも5万ほどの戦力を擁したとされています。アッシリア軍は数だけでも当時の周辺国のそれを圧倒していたのだとか。質の面では被征服民を含む常備軍を創設する事で練度、士気を向上させ、同時に装備や攻城兵器・戦車などの改良を進める事によって強化を図りました。アッシリア軍は大きく各州長官指揮下の地方軍と王直属の中央軍に分かれており、歩兵、弓兵、盾兵(大きな盾で弓兵・工兵等を守る)、騎兵、戦車兵、工兵などの兵科が存在しました。占領統治においては敗者の強制移住などの圧政で知られる一方で、征服地ごとの宗教や文化を分析し、柔軟な支配を行っていた事も明らかになっており、強大な軍事力により武力一辺倒で抑え付けていたという訳でもないようです。彼らの統治手法はアッシリアの滅亡後も継承され、新バビロニアやアケメネス朝などにおいて広大な版図を効率的に治める手段として根強く残りました。