Artist's commentary
守矢神社社報・早苗さんコラム3-2。
(前回の続き)
古くは、神様は神社に常駐していたわけではありませんでした。当時の神社は「神聖な場所」(多くは森林)というくらいの意味で、ほとんどの神社には社殿はなく、神様はいつもは山や河や海や天上の特定の場所あるいはそのどこかにいらっしゃって、祭りのときにはそういった神様を神社の中の巨石や神木、臨時の建物など特定の場所に招き、祭典が終わるとまたいずこかへお帰りいただいていました。つまり、神様は特別にお招きした最高のVIPであって祭りとは「おもてなし」であり、そのおもてなしには自分たちのできうる最高のことが要求されました。神社に常駐の社殿ができてからもその精神は変わらず、現在に受け継がれています。このおもてなしの心が、目の前の人のために自分のベストをつくす「お客様は神様」という言葉にもあらわれています。この言葉を客のほうで「自分は神様だから何をやってもいい」として傍若無人な振る舞いに出る人もいますが、それはあまりにも神様を馬鹿にしているといえるでしょう。立場は関係なく、お互いに目の前の人のために尽くす、そうであってこそ、お互いに「有難う」と言い合える気持ちのいい人間関係が築けるでしょうし、それが神様の御心にも通じます。武家の規律である『御成敗式目』の第一条の条文中に、「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う」とあるとおりです。
お祭りの心はおもてなしの心。お祭りに参加される際は、そういったことを心に留めて楽しんでほしいと思いますし、また普段からの心がけとしてほしいと思います。
最後に、神饌に関する歴史上のちょっと変わった事件をご紹介します。それは『日本書紀』に続くわが国第二の正史、『続日本紀』の宝亀四年(773)九月二十日条に記されています。
「丹波国天田郡の奄我社(あむかのやしろ)に盗人が入り、供物を食べて社中で倒れ死んだ。
そのため、十丈ほど離れた場所に新たに社殿を建てた」
地方の神社に忍び込んだ盗人が神饌を食べたら死んでしまった、という事件が正史に載っているのは、この神社が毎年の祈年祭において朝廷から幣帛を班(わか)たれる神祇官登録の官社であるため、この事件を神社が神祇官に報告したことから中央の記録に残り、国史編纂の時に採用されたものでしょう。採用されるだけあって、なかなかインパクトのある事件です。
新たに社殿を建てたというのは、神様は清浄を好み穢れを嫌われ、そして死穢は穢れの中で最も重いものであるので、社殿の中で人が死んだとなればもうその建物で神様をお祭りすることはできませんから、境内の離れたところに新しい社殿を建てて神様をお遷ししたということです。それにしても、神様への供物を食べて死んでしまったとは、やはり神様のお食事を横取りした罰が当たったのでしょうか。中毒・・・ということも考えられないでもないですが、何にせよ「してはいけないこと」をしてのことですから、罰には間違いないでしょう。
最近博麗神社でも同じことがあったようですが、取材した記者さんによれば霊夢さんは「これは神様のものを取った神罰です」とおっしゃっていたそうです。その写真(一部モザイク処理を施しています)には不審な点もないではないですが、私は同業としてその言葉を信じることにします。
ちなみに丹波国天田郡は現在では京都府福知山市という行政区画になっており、その神社も今に伝わっています。
神饌の話からちょっと飛躍してしまったかもしれませんが、今回はここまでです。東風谷早苗でした。
その1→pixiv #8072285 »その2→pixiv #9958982 »
※前回が長すぎたのでちょっと増やして分割しました
※ちょ、ピクペディアに ※生まれて初めてアンケート設定してみました
※アンケートありがとうございました!
1番:45 2番:66 3番:25 4番:155 5番:36
ということで4番になりました。何という圧倒的な・・・皆さん神職に興味がおありで。はたてちゃんの念写に期待、とかいう不純な動機ではないですよね。